うなぎの蒲焼きは日本の伝統的な料理で、多くの人々に愛されています。しかし、その名前の由来ついては意外と知られていないことも多いです。本記事では、うなぎの蒲焼きの「蒲(かば)」とは一体何なのか、そして今のうなぎの蒲焼の形になった経緯についてまとめていきます。
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蒲焼き、一言でそれをいう多くの場合は「うなぎ」を指す代名詞です。調理方法としては関東と関西で若干の違いがあります。
ウナギに限らず同じようにアナゴでも調理されますし、開いたイワシなどを同様の甘辛いタレに漬けた料理も「蒲焼き」と呼ばれています。
日本の文献で一番古いウナギの情報は7世紀後半から8世紀にかけて数々の歌を集めた歌集である万葉集で、その中の歌に「石麻呂(いはまろ)に われ物(もの)申(まを)す 夏痩(やせ)に良(よ)しといふ物そ 鰻(むなぎ)取り食(め)せ」というのが文献としては最初です。
この石麻呂とは吉田老(よしだのおゆ)のことで、類まれな教養人でしたが非常に痩せていらしたことを、親しい大伴家持が「夏痩せにはウナギを採って食べたらよい」と歌を贈ったものでした。
当時はウナギのことを「むなぎ」と呼んでいて、それは現在も天然のウナギにある特徴の黄色い胸部によるものです。(別の説で、棟木(むなぎ)に似ていたからというのもあります)
平安時代の貴族はウナギを蒸して塩味で食べていたそうです。
室町初期の1399年に京都の吉田神社の神官であった鈴鹿家の記録である「鈴鹿家記」に以下の様な文章が残っています。「其のうなぎを筒に切りて、塩焼きにして、蒲の穂に似たれば、『蒲の穂焼き』と名付く。」
前述の蒲焼の由来で書いた情報はこちらから来ています。
また室町時代の料理書「大草家料理書」に蒲焼についての次のような記載があります。
「宇治丸かばやきの事。丸にあぶりて後に切也。醤油と酒と交て付る也。又山椒味噌付て出しても吉也。」
こちらには塩焼きではなく、同じように筒状に切ったウナギを焼いて、醤油や酒、もしくは山椒と味噌で味付けされていたようです。我々の知る蒲焼とはだいぶ違いますね。なおこの文章にある宇治丸とは宇治川産のうなぎのことで、当時宇治川産のウナギが美味しいと評判となっていて、宇治丸=うなぎと成る程でした。
現代に近い形のウナギのかば焼きになったのは江戸幕府が出来てからおよそ100年後と言われています。その一端を担ったのが1616年に下総の国の銚子(現在の千葉県銚子)で田中玄蕃が始めた「たまり醤油作り」で、それまでの戦乱の世が落ち着き争うが無くなった分の労働力が様々な食糧生産にあてられて、安定して多種多様な食材が流通するようになりました。そのお陰で田中玄蕃が、様々な食材で醤油作り研鑽し作られたのが「濃い口しょうゆ(1697年)」です。
この濃い口しょうゆが出来るまで、関東にある醤油は関西から届く「くだり醤油」だった為、醤油が非常に高価な調味料でした。千葉県銚子周辺で濃い口しょうゆの生産が増えたことにより、醤油が庶民にも手が届く調味料になり、またそのお陰もあって今の現代に通じる「蒲焼」を作ってくれました。なお田中玄蕃が作った醤油蔵が後の醤油メーカーであるヒゲタ醤油となります。
後の1728年に発行の「料理網目調味抄」には「一度焼てあつき酒を数編かくれば油とれ皮もやはらきてよし又焼時酒醤数事付焼へし(最初白焼きにしてから、酒を数回かければ油が落ちて皮も柔らかくなって良い、また焼く時には酒と醤油をつけて焼きなさい)」とあります。当時のお酒は現在の濁り酒のような物も多く糖度が高かったので、現在のウナギのかば焼きに近い味だったと思われます。
また同時期に、その当時輸入に頼っていた砂糖を国産化しようと8代将軍徳川吉宗の「享保の改革(1715年頃)」で動き出していました。
その後、本草学者の田村元雄の研究により1761年に製糖法「甘蔗造製伝」が発表され、その研究を引き継いだ池上太郎左衛門幸豊によって1766年に日本国内初の白砂糖が幕府に献上されたとされています。
これによって徐々に庶民にも国産の砂糖が手に入るようになって、それまで醤油と甘口の酒で味付けしていた蒲焼が、現在の様に「濃口しょうゆ、みりん、酒、砂糖」で味付けされるようになっていきました。
うなぎの蒲焼きは、その独特の風味と高い栄養価で多くの人々に古くから愛されてきて和歌にもなっています。そのウナギの代表的な調理法である蒲焼きの「蒲(かば)」の由来は諸説ありますが、そのいずれもがうなぎの形や焼き上がりの美しさに由来していることが分かります。
現在のウナギのかば焼きの原型が完成したのが、およそ今から260年程前。これからも様々なウナギの活用法が発展していくでしょう。
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