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知られざるジャガイモの歴史とは?:食卓の定番野菜をしっかり深掘りしてみます

はじめに

フライドポテトにポテトサラダ、カレーに肉じゃがと、おそらくアレルギーがあるでも無ければ、人生の中で絶対に口にしたことのある野菜「ジャガイモ」。現在、地球上で小麦、トウモロコシ、米、大豆に並ぶ世界で栽培されている作物がジャガイモというくらいメジャーな野菜です。

 

元々、南米の高地山地の作物の為、寒冷な風土を好む作物ですが、秋植えにすれば暑い国でも生育でき、収穫まで3~4か月程度と早く食料を提供できるので、その供給力を見ても現在ジャガイモを生産していない国は無いと言っても過言ではありません。

 

実際に南米で最大規模の文明であるインカ帝国の食を支えたのも、このジャガイモでした。しかし、そのジャガイモが大航海時代の16世紀に南米からヨーロッパに初めて渡った後、実は長らく食用ではなく観賞用もしくは家畜の飼料用としてジャガイモは扱われてきました。

 

その後17世紀にはアイルランドでは食用として普及するも、ヨーロッパ全土で食料としてのジャガイモ栽培が始まったのは、それから  年後の  のからで、それまで食べ物としては見向きもされない野菜でした。

 

今回のブログでは、そんなジャガイモの紆余曲折と、最大の事件である飢饉などジャガイモの歴史を深堀していきます。

 

ジャガイモといえば「日本の国民食になったカレー歴史」についてのブログはコチラから←

 

 

じゃがいもの起源と古代から伝わった調理法

じゃがいもは、南米のアンデス山脈周辺が原産地と考えられています。特に古代インカ帝国では貴重な食糧源でした。

 

ただ、野生のジャガイモにはソラニンとトマチンという毒性のある成分が含まれています。これらの毒素は加熱調理しても減らないという問題がありました。

ただ、その当時のインカ人はビクーニャ(ラマの近縁種)などが、それらを食べる時、粘土を舐めてから食べていることに気が付きました。毒素を粘土に吸着させて体内に毒を入れない様に食べていることに気づき、それを真似て粘土と水で作った「グレービー(gravy)」と一緒に食べたそうです。

現在のペルーでも同じように粘土をジャガイモに着けて食べる文化が残っています。

 

その他にも様々なジャガイモ料理がインカで生まれました

  • パパス・セカス(papas secas):ジャガイモを茹でて皮を剥き刻んで乾燥させたもの
  • トコシュ(toqosh):水にジャガイモを長期着けて発酵させた食品、遠くにいても臭いで気づく程、強烈な発酵臭がする
  • アルミドン・デ・パパ(almidón de papa):すりつぶして取り出したジャガイモでんぷん。現在の日本で使われている「片栗粉」もこのジャガイモでんぷんです。
  • チューニョ(chuño):最もポピュラーなジャガイモ加工品。寒冷な夜に屋外にジャガイモを広げ凍らせ、日中解凍させてジャガイモの細胞組織を壊して中の水分を抜いて乾燥させて作る長期保存食です。

当初、このように様々な方法で毒素を抜いて食べられていましたが、その後に突然変異で毒性の少ない現在世界に広まっているジャガイモの大元が生まれ栽培されました。

 

この様に様々なジャガイモを加工して毒素を抜いて食べられてきたことのよって食料が安定的に供給することができたことが、山岳という過酷な環境でも強大なインカ帝国を作ることのできた原動力の一つだったのでしょう。

 

また、現在も霜に強い事が好まれて原種に近い種がペルーでは育てられています。ペルーにおいてジャガイモは主食な為、全世界で5000種程あるジャガイモの品種の中の70%である3500種のジャガイモが今もペルーで生産されています。

 

 

 

ヨーロッパへの導入と普及

最初にジャガイモを食べたヨーロッパ人は、1524年にスペインから来たフランシスコ・ピサロの一団だったと言われています。

 

その後、1526年にまた南米に赴いたフランシスコ・ピサロ達が、初めてジャガイモを持ってヨーロッパに戻ったと言われています。

ただ、当初のジャガイモは、ヨーロッパでは葉や花を愛でる観葉植物もしくは家畜のエサとして使われ、食用として用いられていませんでした。

 

当時のヨーロッパはまだ天候不順で作物が育たず飢饉になり、それに伴う戦争が頻発に起こっていた時代でした。農業の機械化によって効率が良くなるのは、この時から更に200年以上後の産業革命以降ですから、普通に考えればジャガイモをすぐに食料として利用するはずですが、「ジャガイモは聖書に記載がない」という宗教上の理由や、見た目がこれまでの野菜と違うことから「不格好」と言われ、なかなか食料として根付きませんでした。

 

ヨーロッパで最初にジャガイモ栽培が根付いたのは、16世紀のイギリス統治下のアイルランドでした。当時アイルランドでは生産した小麦をイギリス人の地主に納め、アイルランドの人々は自分たちが食べる分の食料として比較的収穫までの期間が短くたくさん収穫できるジャガイモを主食としていきました。

 

ただ、他のヨーロッパの国々でジャガイモを食料として利用しだすのは18世紀になってからと言われています。もちろんその間もジャガイモの生産性、栄養価に目を付けて、導入を試みるもうまくいかないことが多かったようです。

 

1744年のプロイセン王国(ドイツ北東部)のフリードリッヒ大王は、当時家畜用のエサとして栽培されていたジャガイモを飢饉対策に仕えると考え、宮廷内で栽培を試み、レシピも発案させましたが、人々の「ジャガイモは家畜用」という考えを変えることは当時はできませんでした。

 

しかし、このプロイセン王国での試みは別な形でジャガイモをフランスに、そしてヨーロッパに広める切っ掛けになりました。

 

事の発端は1756年にプロイセン王国に奪われたシレジア地方を取り戻そうとオーストリアが始めた「7年戦争」。その戦争にフランス北部出身の薬剤師で衛生部隊員として従軍したアントワーヌ=オーギュスタン・パルマンティエがプロイセン王国の捕虜になったことから始まりました。

 

当時のプロイセン王国では、飢餓対策で王宮内でジャガイモを栽培するも、臣民には広まらず余っていたので、捕虜の食事のほとんどがジャガイモばかりでした。パルマンティエは従軍中に5度も捕らえられ捕虜となりジャガイモを食してきましたが、その間に体調を崩すことなく健康であった経験を覚えていて、彼は1760年代にフランスで飢饉が起きた際に、ジャガイモの有用性を伝える論文をブザンソン・アカデミー懸賞論文に出して優勝しています。

 

パルマンティエが活躍した時代、ちょうどフランスではパンの価格が高騰していて、新たな食糧の需要が高まっている時でした。食糧難もあった為、それまで飼料として見られていて見向きもされなかったジャガイモを、市民も少しずつ食用としていき、徐々に食料としてジャガイモが受け入れられていきました。

 

 

じゃがいもと歴史的大事件

じゃがいもの歴史について語る上で、必ず通らざるを得ない一大事件として挙げられるのが「アイルランドの大飢饉」です。この歴史的事件により、多くのアイルランドの人の命が失われるだけではなく、アメリカへの移民、そして現在のイギリスとの対立の発端になりました。

 

アイルランドの大飢饉

じゃがいもは16世紀後半にアイルランドに導入され、18世紀には特に貧困層の主食として定着していました。アイルランドの農民は小規模な農地で多くの家族を養うために、じゃがいもを栽培し食料としてきました。この単一作物への食料依存が、後の悲劇の基盤を作りました​。

 

1845年から1852年にかけて、アイルランドは壊滅的な大飢饉に見舞われました。この大飢饉の直接的な原因は、じゃがいもを枯らす疫病(Phytophthora infestans)の蔓延でした。これにより、アイルランド全土でじゃがいもが次々と腐り、多くの家庭が食糧を失いました​。次年度は1/3、翌年は1/5と収穫量を減らし、大変な食糧危機になりました。

 

この大飢饉により約100万人が餓死し、さらに100万から200万人が国外に移住しました。ただ、実はジャガイモ以外の小麦は大丈夫だったのですが、その小麦はアイルランドからイギリスへと食料輸出されていて、この輸出の継続が、飢餓に苦しむアイルランドの人々に対するイギリス政府への不満を増幅させました​。

 

アイルランドの大飢饉は、じゃがいもという作物の普及と、単一作物栽培の脆弱性を痛感させるものでした。この悲劇は、アイルランド社会とその後の歴史に深い影響を与え、イギリスに対する反感を増幅し、独立運動を後押しする一因となりました。

 

 

知られざるジャガイモの歴史まとめ

じゃがいもは南米の最大王国インカ帝国の繁栄を支えた最大の栄養源でした。元々は毒性の強い野生のジャガイモを粘土と一緒に食べたり、様々な加工することによって、作物栽培の困難な山岳地帯でも多くの食料を生産することが可能となり、結果インカ帝国の礎を作ることができました。

 

その後、大航海時代にスペインによってヨーロッパへと伝わったジャガイモですが、およそ100年以上の間、食料としてではなく観賞植物として、もしくは家畜の飼料としてだけ使われ、食料とされていたアイルランドも主要作物の小麦は小作料としてイギリスに接収されてしまう為、食料をなんとか確保する為の苦肉の策として食べられていたものでした。

 

しかし、その素晴らしい栄養素、そして作付けから収穫までの期間が短い生産性に目をつけたプロイセン王国によって実験的に生産されていたこと、そのプロイセンに捕虜となっていたフランスの衛生部隊のパルマンティエによって、ジャガイモによる飢饉への対策、そしてパンの高騰も相まって少しずつジャガイモがヨーロッパで食料として広まってきました。

 

ただ、本来飢饉の為を思って広まったジャガイモですが、疫病とその単一栽培によって、1845年からアイルランドで大飢饉が起き、尊い命が多く失われる事態になり、その後も多くの禍根を残しました。

 

今は全世界で愛されているジャガイモにも、不遇の時もあり、また大飢饉へとつながったこともあります。そんな歴史を胸に刻みながら、現在ジャガイモを美味しく味わえることを感謝して楽しみましょう。

城戸憲司

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