皆さんご存じの佃煮、昆布や海苔などの海藻類、小エビや小魚などの水産物、野菜や山菜などの農産物を、砂糖・醤油・水あめ・みりんなどの調味料を使って、甘辛く味付けすることによって作られた日本の保存食の代表です。
この佃煮。実は2か所の「佃」が関連して生まれた食品です。
ことの始まりは天正10年(1582)に織田信長が「武田軍」を打ち破った祝いの宴に徳川家康を招いたのが始まりです。信長から安土城で饗応された後に、信長の提案で5月29日から堺(現:大阪府堺市)に見物に行き6月2日に信長のいる京都に戻ろうとした時、豪商の茶屋清延より「信長が明智光秀に討たれた」という報告が届きました。世にいう「本能寺の変」です。そこから家康は一度は信長の後を追って自刃しようか迷うも、配下の説得と手配によって、堺から伊賀を越えて三河の岡崎城に逃げるという一連の中で一つ目の「佃」との関係が生まれました。
1つ目の「佃」は堺から岡崎城に逃げる際に、大阪の神崎川に差し掛かった時、川が渡れず難儀していた。その時に佃村を取りまとめていた庄屋の「森孫右衛門」と村の漁民が舟を出して神崎川を渡るのを助け、また漁民が魚を取った時に出る雑魚を塩や醤油で煮て作った保存食の「小魚煮」を道中の食事にと提供されました。それが佃煮のルーツと言われます。そのお陰もあって、家康は無事に三河の岡崎城まで帰陣することができました。
その後、天正18年(1590)に豊臣秀吉が関東の北条氏を討ち、天下統一をした際に、秀吉より家康に領地を三河から江戸に移るように命じられた際、佃村の領民も一緒に移住し、土地を与え、漁業権を与え、武家屋敷への出入りも許可し、租税も免除するという好待遇で迎えたのは、「伊賀越え」の際に助けられた恩返しだったと推測されます。
その時与えられた土地が2つ目の「佃」で、大川(現:隅田川)の河口付近の干潟百間(約180メートル四方)で、その地を正保元年(1644)埋め立て造成し元居た佃村にちなんで「佃島」と名付けました。そこで以前作っていた「小魚煮」作り幕府に献上したり、佃島にある住吉神社の参拝者に配っていたそうです。それを回船問屋の奉公人が「佃煮」の名前で売り出して、人気を博して全国に広まり、同じように各地で「佃煮」の名前で様々な海産物・農産物で作れるようになりました。(余談:明暦の大火(1657)の後、隅田川河口辺りを再開発してできたのが「築地」です。特に「本願寺」の土地は佃の門徒たちによって埋め立てられたと伝わっています)
この様な流れで佃煮が生まれましたが、その他にも2つの「佃」は立地においても「佃煮」が生まれる要因があったと考えられます。それはどちらも「流通の中心地」に近かった点です。
昔から堺は商業の街として栄えており、商業が盛んということは人も多く集まる。また、秀吉の居城の大阪城もあったので、全国から様々な食材が集まったと考えられます。その中にはまだ希少だった「醤油」も含まれていたでしょう。まさに「天下の台所」の呼び名に相応しい食材豊かな町でした。
江戸も幕府が開かられてから人口が爆発的に増えて「醤油」が手に入りやすかったのと、その後、薩摩藩経由で琉球から「砂糖」がたくさん江戸に集まったお陰で、今の甘辛い佃煮が生まれました。
佃煮に使われる小魚や海藻、山菜からも様々な栄養素を摂ることができます。
貝類も筋肉を作るたんぱく質が豊富ですが、その他に、
ビタミンやミネラル、食物繊維が豊富な海藻の佃煮には様々な栄養効果が期待できます。
原材料の農産物に含まれる栄養素が摂れます。
佃煮は大阪の「佃村」と、そこから移住してきて作った「佃島」で育まれた料理でした。その保存性はもちろん、徳川家康との関係、どちらの「佃」にも醤油などの食材が豊富だったことが「佃煮」が生まれるきっかけでした。
美味しい佃煮を食べて、健康的に過ごしましょう。ただし、佃煮は塩分・糖分が非常に多いので食べ過ぎには気をつけてください。
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