温かいお蕎麦から冷たいお蕎麦と春夏秋冬、日本人に愛されているお蕎麦。米、小麦についで、そば粉にして年間およそ130万トンが日本国内で消費されています。
そのルーツはユーラシア大陸、中国雲南省からヒラヤマあたりであったのではないかとDNA鑑定から推測されていています。日本国内では高知県の9000年前の遺跡からそばの花粉が発見されていますし、埼玉県の3000年前の遺跡からも蕎麦の実が見つかっているそうで、大昔から愛され栽培されてきたことがうかがえます。
出土した植物の状況から、最も古い炭化した種子は北海道の渡島(ハマトミ遺跡)から発見されていることから、日本には縄文時代に渡来されたと考えられていますが、稲や小麦の様に田んぼの畔が残っていたり、小麦の塊が発掘されるみたいな栽培されていた証拠は縄文時代には見当たらず、ただ北は北海道から南は福岡の遺跡よりソバの花粉が見つかっているので、全国的に縄文時代には日本に伝来していた様です。
文献で最初に歴史に「蕎麦」が登場するのは養老6年(722年)の元正天皇の詔勅で直訳すると「私は凡庸なまま皇位を継いだので、自らに厳しく勉めてきた。それだけれどもその誠意が天に届かず。この為、今年の夏は雨が降らず、稲が実らなかった。そこで全国の国司に命じて、人民に勧め割り当てて晩稲・蕎麦・大麦・小麦を栽培させ、収穫を蓄えて凶作に備えさせた」という一文があります。(続日本紀)
この様にそばは、稲作が不振な時の恐慌食としての役割を担っていた模様です。
干害に強い蕎麦ですが、しばらくの間、歴史からあまり出てこなくなったのは環境が安定していた時代が長かった為と考えられます。その後、戦国時代になりまた干害が出始めると、蕎麦の栽培が増えだす。
現在の蕎麦といえば茹で麺の蕎麦が主流ですが、元々の蕎麦といえば、そば粉をお湯で混ぜた「そばがき」などでした。麵としてのそばは1547年(天正2年)に定勝寺(木曽)で仏殿修理をする際の様子を記した「番匠作事日記」の中に「振舞ソハキリ金永(金永さんが蕎麦切りを振舞った)」という一文があり、今のところ一番古い蕎麦麺( 蕎麦切り)の資料となっています。
ただ、当時の蕎麦は茹でて食べるのではなく、蒸籠で蒸して味噌だれで食べられていた模様で、その名残として今もそば屋で、ざるそばを提供する際に蒸籠で出すことが多いです。
そばつゆは千葉県銚子でヤマサ醤油が創業し地回り醤油が作られるようになった1645年(正保2年)以降の模様です。それまでは味噌だれで蕎麦は食べられていました。
蕎麦にはよく十割そばと二八そばとい表記があります。その違いをご紹介します。
十割そばはその言葉通り100%(10割)そば粉で作られた蕎麦で、香り高い代わりにのど越しは少し劣ります。
二八そばは享保の初め頃(1716~36年ごろ)に埋まれば言葉らしく、元々は価格が16文だったので2×8で二八と呼んでいたのだが、その後の値上がりに伴ってそば粉8割小麦粉2割の配合割合を表す言葉になっていったらしい。結果、小麦が入ることによってのど越しが上がっているというのも二八そばが今に受け継がれてきた理由の一つと考えられいます。
昨今、非常に手軽な価格の蕎麦には原材料の順番が「小麦粉・そば粉…」の順番に並んでいるのも見受けられます。基本的に配合割合が多い順に並んでいるので、その手の蕎麦は「八二そば」なのかもしれません(小麦粉8割そば粉2割)、全国製麵協同組合連合会の規定では「そば粉30%以上、小麦粉70%以下の割合で混合した原料を用いた物」を日本そばと定義しています。
江戸っ子と言えば「蕎麦」のイメージもあるが、元々江戸に住んでいた方は蕎麦を食べていなかったらしい。蕎麦に恐慌食のイメージがあったのと、当時少しずつ米の生産能力があがっていたので米を食べていて、どちらかと言えば地方より上京してきた方が食べていた。ただ、精米技術が向上して白米を食べる様になった結果、江戸で脚気(江戸患い)が蔓延し、ビタミンB1が豊富なそばを食べている上京した方が脚気に掛からないのを見て少しずつ広まっていたらしい。ちなみにそば粉の2番粉をそばがきにして100g取ると、成人1日当たりの必須ビタミンB1の約40%を摂取できるらしい。
その他にも血液サラサラ効果で有名なルチン、抗炎症作用のあるルベリン、抗酸化作用のあるケルセチンやイソビテキシンなどなど健康成分を蕎麦は含んでいる。
参考文献
そば学大全 日本と世界のソバ文化 俣野敏子著
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