日本の冬の果物と言えば、こたつにみかんと言われるほどの愛着のある果物、それがみかんです。そんなみかん実は江戸時代から爆発的に増え、そして現代人気の種なしの温州ミカンではなく、種がある紀州みかんが一番の人気でした。むしろ温州ミカンは最初は縁起が悪いと避けられていたそうです。
今回のブログでは、みかんの原産地から日本伝来した理由、そして和歌山が一大産地として有名になった経緯、実は鏡餅に飾るのはみかんではないという内容を詳しく紹介していきます。
みかんの原産地は今から3000万年前のインドのアッサム地方からタイやミャンマー辺りと言われいます。その後、東南アジアや中国に広がっていったと考えられています。
今から4000年前の紀元前22世紀頃には中国に渡っていて栽培を始めていたという「禹貢(うこう(英語名:Tribute of Yu))」という文献に残っています。禹貢は中国の儒教の古典である「尚書」の1章です。紀元前2205年から2197年まで統治していた中国の皇帝に捧げられた本で中国で最も古い地理学の書物とされています。
禹貢の中に「淮海惟扬州。彭蠡既猪,阳鸟攸居。三江既入,震泽厎定。筱簜既敷,厥草惟夭,厥木惟乔。厥土惟涂泥。厥田唯下下,厥赋下上,上错。厥贡惟金三品,瑶、琨、筱、簜、齿、革、羽、毛惟木。島夷卉服。厥篚织贝,厥包桔柚,锡贡。沿于江、海,达于淮、泗。(要約:揚州から柑橘が淮と泗という川を通って貢物として運搬された)」という一文があり、この桔柚が古代みかんだと言われているそうです。
また紀元前114年頃の前漢時代の歴史家 司馬遷の書かれた「史記」には次の様な記述があります。「齐必致鱼盐之海,楚必致橘柚之园。(訳:斉の国には海があるから必ず魚と塩があり、楚の国には農園があるから必ずみかんと柚子があるでしょう)」という一文があります。この一文によって斉(山東省東北部)には特産品としての魚介類や塩、楚(湖北省と湖南省)(当時の属国)の特産品として、みかんなどの柑橘類が豊富にあったことが分かります。
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みかん(柑橘類)について日本で最初に記載があるのは古事記(712年)と日本書紀(720年)になります。
古事記によれば第11代 垂仁天皇(紀元前29年~70年)が、「常世の国にある「非時香菓(ときじくのかくのみ)」という一年中良い香りをさせて延命長寿に効果がある実を持ち帰る様に」、現在の兵庫県豊岡市にいた田道間守(だぢまもり)に命じました。
田道間守は現在の中国やインドなど様々な国を巡り10年掛けて、黄色い良い香りのする非時香菓を持ち帰りましたが、その時には既に垂仁天皇は崩御された後でした。持ち帰った非時香菓の半分を亡き垂仁天皇の皇后に献上し、残り半分を垂仁天皇陵に供え悲しみむせび、ついには亡くなったとされています。
この時に田道間守が持ち帰った黄色い果物の非時香菓が「橘(たちばな)」で、その後この橘の実を品種改良されてみかんになったとされています。また橘(たちばな)という名前は持ち帰ってきた田道間守の名前から「田道間花(たぢまばな)」と呼ばれ、それが「たちばな」に変化したという説があります。
田道間守が橘を持ち帰ったという古事記や日本書紀の伝説からから、「菓子(古くは果子)」の神様として、故郷の豊岡市の中嶋神社に祀られていらっしゃります。その他にも奈良県の橘寺や、佐賀県の伊万里神社内にも中嶋神社の分社があり、和歌山県の橘本神社の元の鎮座地「六本樹の丘」には田道間守が持ち帰った橘を植えられた場所と伝わっています。
この様に菓子と柑橘の神様の「田道間守」の信仰とともに、橘の有用性もあって全国に橘の生息域が広がっていきました。
田道間守の時代から、およそ900年後、白河上皇が和歌山県の熊野参詣を12回もされて、その後の上皇も和歌山県の熊野参詣するようになり、それがきっかけで貴族から武士、ついには庶民も熊野を詣でるのが一大ブームになりました。
当時の参詣の土産物として、自生していた柑橘(野生の橘)が人気でした。糸我稲荷神社の宮司(1810年)によって書かれた社伝の「糸我社由緒書」によると、室町時代初期の「永享年中(1429年~1440年)に糸我の庄中番村の地に橘の樹が1本自然に生え出て、毎年実を結ぶ、その味は蜜のように甘いので、よって蜜柑と名付けた」と記述されている。これが蜜柑(みかん)の始まりとされています。ただ、1574年(天正2年)に有田市糸我の伊藤孫右衛門が、九州の肥後国(現在の熊本県)八代から柑橘の苗木を持ち帰ったのがみかんの始まりとう説もあります。
「糸我社由緒書」蜜柑発祥から更におよそ200年後、関ヶ原の合戦も終わり太平の世になった時、この地を統治していたのは、徳川家康の十男で初代紀州藩藩主「徳川頼宣(とくがわよりのぶ)」でした。
徳川頼宣は藩主として紀州(現在の和歌山県)で稲作を奨励するのと一緒に、山地が多く稲作に向かない地域では蜜柑(みかん)の栽培を推奨しました。
そんな中、1634年(寛永12年)に1634年に滝川原藤兵衛(たきがわらとうべい)が自分のみかん畑で採れた紀州みかんを初めて船で江戸に運ぶと、有田のみかんの美味しさが江戸で大評判になったそうです。紀州みかんが江戸で大人気になって売れることによって紀州藩の財政はよくなるので、紀州藩も全面的に支援したそうです。
1685年(安永8年)11月に海が荒れてみかんを運ぶ船が出航できない日々が続いた時、江戸ではちょうど「ふいご祭」という鍛冶屋のお祭りが間近に迫っていて、そのお祭では鍛冶屋が鉄を溶かす為の炉である「たたら」にみかんを供えたりするので、みかんの需要が高まっているのに、船が来なくてみかんの価格が高騰していたことを知った後の有田の豪商、紀伊國屋文左衛門(当時17歳)が、仲間と共に荒れる海の中を決死の思い出で船を操り、無事に江戸までみかんを運んで、いつも以上に高い価格で売れて非常に儲かったという逸話が残っています。
この様に紀州藩の後押しと、多くの人々の尽力があったお陰で、紀州藩(和歌山県)はみかんの一大産地となっていき、現在もそれが引き継がれています。
現在、みかんと言えばこの温州みかんですが、実は前章の紀州みかんとは別の品種になります。発祥は薩摩藩(現在の鹿児島県)の長島で江戸初期頃に、当時中国と貿易をしていた薩摩藩が持ち帰った柑橘類の早桔(そうきつ)、本地早(ほんちそう)槾桔(まんきつ)の中のどれかの種から自然発生し、その後、種が無いもしくは少ない品種に突然変異して温州ミカンが生まれたと言われています。
江戸時代に人気だった紀州みかんは別名「小みかん」と言われ、およそ50gの大きさなのと種が多いのが特徴でした。それに対し温州みかんはご存じの通り100gくらいの大きさなのと、基本的に種はありません。
現代では食べやすい温州みかんが人気ですが、実は江戸時代では温州ミカンは不人気で、種が多い紀州みかんが人気でした。それというのも紀州みかんが香り高く非常に甘い上に、種が多いという紀州みかんの特徴を「子宝に恵まれる」と好み、種が無い温州みかんを避けたからでした。
その後、明治期になると徐々に温州みかんの人気は高まり、紀州みかんから温州みかんへと主流が変わっていきました。明治になって物流が発達するに連れて食べやすく大きい温州みかんが人気になった一因です。
ちなみに温州という名前は、中国のみかんの産地であると伝わっていた「温州」にあやかって名付けられたそうです。また温州ミカンの英名は、明治初期に鹿児島(薩摩藩)から温州みかんの苗木をアメリカに贈ったことから「satsuma mandarin(サツマ マンデリン)」や「satsuma orange(サツマ オレンジ)」と呼ばれているそうです。
お正月に年神様を迎える為の依り代として飾られる鏡餅に乗せるのは実はみかんではありません。これも前章の話に共通する理由ですが、鏡餅に飾る柑橘は「橙(だいだい)」とされます。なぜみかんではなく橙かというと次のの理由があります。
また鏡餅を飾る理由は、神道において鏡に神様が宿るのと、その鏡(餅)に、橙を飾るのは、三種の神器の一つである八坂の勾玉に見立てているという説と、おめでたい初日の出を橙で表現しているという説もあります。
冬の果物の代表である「みかん」。その始まりは実は暖かなインドやタイの辺りでした。それが中国に渡り、大昔の日本に橘として伝来し、その後の熊野参詣のブームや徳川頼宣のよるみかん栽培の奨励によって、みかんは人気の果物となりました。
ただ江戸時代のみかんは種が多い紀州みかんが子宝に恵まれると人気で、今人気の温州みかんは明治に入ってから人気が出てきて現代のみかんの代名詞となっております。
現在も新たな柑橘が続々と生み出されていっている日本、、2022年1月時点で農林水産省に登録されているみかんの品種数が103種類であるといわれ、これからも多くの品種が生まれて新たなみかんの歴史が重なっていくことになるでしょう。
そんなみかんの歴史を、こたつでみかんを楽しみながら思いはせていきましょう。
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有一个细节误解在这一段:また紀元前114年頃の前漢時代の歴史家 司馬遷の書かれた「史記」にも斉(山東省東北部)と楚(湖北省と湖南省)(当時の属国)の特産品としての柑橘類についての記述があります。
应为:楚(湖北省と湖南省)(当時の属国)の特産品としての柑橘類についての記述があります。
齐国的特产是海产品。
感謝您提供資訊。我會檢查並改正。
情報提供ありがとうございます。精査してから修正させて戴きます。