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うどんは中国から伝来?中国起源の謎を探る!日本のうどん文化とその歴史的変遷

中国から日本に伝来した

 日本の「うどん」は中国から伝来したと言われています。しかし、その起源に関しては所説あります。日本の食文化にもなっているうどんの起源に今回は焦点を当ててご紹介します。

 

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メソポタミア文明から広まった小麦栽培

 元々は小穂に1粒しか入っていなかった小麦の原種が、コーカサス地域(ロシア、トルコ、イランに隣接するアゼルバイジャン、アルメニア、グルジア3国周辺地域)で多粒のが生まれ紀元前7000年頃メソポタミアにて大規模栽培が始まり、紀元前3000年前後に欧州や北アフリカに、数千年前に中国に伝わったとされています。ただ、小麦は冷涼で少し乾燥している気候に適しているので、中国や日本を含む湿度が高く温暖な地域では不適だったのと、既に稲作が盛んだったので、初期のアジアではあまり根付きませんでした。

 

 

粒食から粉食へ

 元々小麦は脱穀された粒のまま粥の様に煮て食されていたみたいですが、小麦はそのままだと硬く、長時間煮ないと食べられないのと、硬い表皮(ふすま)を除こうとすると米と異なり砕けてしまうこと、砕けて粉状にした小麦を水でまとめた生地は含まれるグルテンの効果によって粘りと弾力が生まれ、その食感が好まれたことによって徐々に小麦粉にして利用されるようになりました。

 

 その技術は中国にも伝来し、中国の戦国時代の遺跡から製粉用の石臼も発見されています。製粉技術の伝来によって、それまで稲作メインだった中国において、徐々にワンタンなどの小麦料理の技術が発展していき小麦栽培も増えていきました。

 

 

うどんの起源には諸説がいっぱい

 そんな風に中国で小麦粉料理が始まっていきましたが、その後、日本の「うどん」の起源になった伝来には複数の説があります。順番にその歴史をご紹介していきます。

 

餛飩(こんとん)

 遣隋使として中国に渡った僧侶が学び日本に伝えて「うどん」のルーツの一番有力な候補が餛飩(こんとん)。中国の北部ではワンタンの事を「餛飩」と書くので、うどんのルーツは恐らく元々ワンタンのことだったという説。なお北部の餛飩(フォントォン)が広東に伝わり雲吞(ワンタン)になったと言われています。現代日本にはそのワンタンが伝わってワンタンは「雲吞」と書きます。

 

 奈良時代に日本に伝わった餛飩に肉餡が入らなかったのは、伝えたのが僧侶で仏教では肉食を禁じていたから、中の肉餡は伝わらず周りの皮のみの餛飩が伝わりました。

 

 餛飩という名前も、元々は「小麦粉と肉餡という違うものを混ぜ合わせる」という意味で「混沌(こんとん)」になり、水を表す「さんずい」から食べ物を表す「食偏」の「餛飩」に変化したと言われます。

 

 

餺飥(はくたく)

 北魏の賈思勰(かしきょう)が書いた「斉民要術」という農業書(530~550年頃)には農業技術の他に、調理方法なども記載されていて、その中に「餺飥(はくたく)」という料理があります。

 餺飥の「餺」は元々「薄」で薄いの意味。「飥」は餅とも読み、中国では日本の餅と異なり、「小麦」をメインに「そば」などの粉類をまとめた物を指すので(例:月餅)、この場合、「小麦をまとめた物を薄く伸ばした物」を意味します。

 

 日本では平安時代の右大臣の藤原実資(ふじわらのさねすけ)が書いた「小右記(しょうゆうき)」という日記に、一条天皇が春日大社に訪れた際に開かれた宴で「餺飥(はくたく)」が出されたという記載があります。同時期の書物「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」には前述の「餛飩(こんとん)」と「餺飥(はくたく)」が一緒に記載されているので、この2つは同時期に日本に伝わったと考えられます。

 

 この「餺飥(はくたく)」が後に山梨の「ほうとう」になったとも言われています。

 

切り麦(きりむぎ)

 それまで手延べ麺が主流だった中国にて、生地を切って作る「手打ち麺」が唐(618~907年)に発明され、宋(960~1279年)には広く知れ渡るようになりました。ちょうどその頃の日本では、遣唐使や日宋貿易が行われ、手打ち麺が「切り麦」として日本に伝わったと考えられる。同時期、臼が庶民にも普及して、庶民にも「切り麦」が広まったとされています。

 

 室町時代の公家 一条兼良(いちじょうかねよし)が編集したという「尺素往来(せきそおうらい)」に「截麦(きりむぎ)は冷濯(ひやしあらい)」と記述があり、切り麦は水で冷やして食べられていて、これが「冷や麦」のルーツになったとも言われています。

 

 

碁子麺(きじめん)

 中国の南北朝時代に北魏で生まれた碁子麺。小麦を伸ばし竹などで碁石の様に丸く抜かれた物だった。日本には鎌倉時代末期から南北朝時代に伝来し、同形態で伝わったが、江戸時代には平麺、いわゆる「きしめん」に変化しています。

 

 

索餅(さくべい)

 

 索餅の「索」とは元々「縄」の意味で、現在も船を係留するロープの事を「係留索」といいます。それなので、索餅とは縄状に編まれた手延べの細い小麦麺だと言われています。日本には遣唐使によって伝えられたと言われ、当初の索餅は小麦の麺を米粉で伸ばしていましたが、禅宗の寺で精進料理に使われていた油を使って伸ばしたところ、より細くコシのある麺が伸ばせたので、それが主流になっていきました。時代とともに「索餅」から「索麺」に名前が変わり、その後「索」が「素」に変わって「素麺(そうめん)」へと変化していったと考えられています。

 

 索餅は「七夕のお供え物」としても使われていたので、現在の七夕にも「そうめん」を食べる文化が残っています。

 

→関連ブログ「食べる七夕」

 

 

饂飩という文字は「温かいうどん」から

 中国から様々な形で小麦麺が伝来してきて、日本の小麦麺文化が形成されてきました。その中で前述の切り麦は冷やして食べられていましたが、温めて食べるとのびやすく食感が失われるので、小麦緬を温めて食べる場合は太い麺を使うことが多かったと考えられています。それを温かい餛飩(こんとん)で「温飩(おんとん)」と呼び、その後やはり餛飩同様に水を表す「さんずい」から「食偏」に変わって「饂飩(うんとん)」へ。そして「饂飩(うどん)」となったと言われています。現代にもつながる饂飩(うどん)という言葉はこうやって生まれました。

 

まとめ

 今回は「うどん」の起源についてまとめてみました。すべて中国から伝来したものに由来すると言われていてワンタンからという説や、ほうとうのルーツからという説、冷や麦のルーツやきしめんのルーツ、そうめんのルーツと様々な小麦麺の文化が混合して現在の日本の「うどん」文化が生まれたと思われます。暑い日はキリリと冷やした冷や麦やそうめん、寒い日は熱々うどんやほうとうを食べながら、日本へと伝わったうどん文化の流れに思いを馳せるのも楽しめます。

 

城戸憲司

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